火事と隣り合わせの江戸時代
江戸時代は、木造建築が密集しており火事が頻発する時代でした。家々が木造で建てられており密集していたため、ひとたび火災が発生すると瞬く間に燃え広がってしまうことが多かったのです。1601年(慶長6年)から1867年(慶応3年)の大政奉還までの267年の間に、江戸では49回もの大火が起こったといいます。
特に、明暦の大火(1657年)のような大規模な火災は、江戸の町に甚大な被害をもたらし、多くの人々が家や財産を失いました。
人々は、常に火事の危険と隣り合わせに暮らし、火の始末には細心の注意を払っていました。しかし、それでも火災は後を絶たず、江戸の人々にとって大きな脅威となっていました。
当時の火消しと消火方法
火事が頻発した江戸の町には、火消しと呼ばれる人々が活躍していました。火消しには下記のように大名、旗本、町人により組織されたものが存在していました。
- 奉書火消:大名火消の前身。1629年(寛永6年)、幕府により江戸で初めてつくられた火消しです。火災が起こるたびに奉書によって大名を招集していました。
- 大名火消:1643年(寛永20年)、幕府は16家の大名を指名し、主に江戸城や大名藩邸を守るための自衛の消防隊を組織しました。加賀藩お抱えの「加賀鳶」が有名でした。勇猛果敢な活動と華麗な装備で知られ、当時の浮世絵や歌舞伎の題材にもなりました。
- 定火消:1657年(明暦3年)の明暦の大火をきっかけに幕府が4人の旗本に命じてつくりました。飯田橋、市ヶ谷、御茶ノ水、麹町に設けた屋敷に、役人や火消し人足(おもに鳶職人)が常駐しており、火事が起きたらすぐに出動できる体制をとっていました。1704年(嘉永元年)には10か所に拡大しました。現在の消防署の前身と言えます。
- 町火消:1718年(享保3年)に大岡越前守忠相が整備しました。おもに町人地区を火災から守るための民間の集団でした。頭取、小頭、纏持ち、梯子持ち、平人、人足という階級に分けられ、組織だった行動を取りました。いろは48組のほか、本所、深川に16組の合わせて64組の町火消しがありました。
当時の消火方法は、現代のように水や消火剤などを使用するのではなく、火が周りに延焼しないように、火元の風下に建つ家を取り壊してしまう破壊消防という手段でした。
吉原遊郭:火事が頻発した特別な場所
吉原遊郭もまた、多くの客が集まる場所であり火災のリスクが高い場所でした。遊郭の建物は木造でしかも密集していたため、一度火事が起きるとあっという間に燃え広がってしまいました。
実際、吉原遊郭では何度も大きな火事が発生し、そのたびに多くの建物が焼失しました。
なぜ?吉原の火事に火消しは出動しなかったのか
吉原遊郭で火事が発生した場合、火消しは出動しなかったと言われています。これは、当時の幕府の政策や、遊郭側の思惑が関係しています。
遊郭内で火事があると、郭内の消防夫は消防活動に従事しましたが、町火消は大門内には入らず、土手に陣取って鎮火を待ちました。また郭内の消防夫も焼け残った妓楼があると、これも焼き払い壊すなどの手段をとりました。
これは、仮宅での営業が許可される条件が、妓楼が全焼した場合のみだったためです。
仮宅とは臨時の遊郭をいい、火事で全焼するなどして営業できなくなった場合に限り、妓楼が再建されるまでの間、料理屋、茶屋や商家、民家などを借りて臨時営業することが認められていました。
仮宅は、吉原遊郭よりもアクセスの良い浅草や深川にあり、雰囲気がいつもと異なり格式張っておらず、経費もかかりませんでした。料金も安く設定されていたため、日頃は吉原に来ないような男も多く訪れ、吉原での営業よりも大いに賑わい、利益が上がったといいます。経営が傾いていた妓楼が持ち直すこともあったとか。
そのため、妓楼の楼主も遊郭が全焼することを望んでいました。
まとめ
吉原遊郭は、江戸時代に栄えた遊郭ですが、火災の危険と隣り合わせの場所でもありました。
吉原遊郭で火災が発生した場合、火消しは出動せず、遊郭の全焼を待つだけでした。これは、幕府の政策や遊郭側の思惑によるものでした。
火事の後には、仮宅営業が認められ、遊郭は復興を遂げました。仮宅営業は、遊郭の経済効果を高めることにもつながりました。