「花柳病」って聞いたことありますか? 昔の性病のことなんです。
「花柳病」という言葉を知っていますか?
ちょっと古めかしい響きですが、これは昔の性病を指す言葉です。
現代では「性感染症」と呼ばれる病気ですが、今回は「花柳病」に焦点を当て、その歴史や遊郭との関係、そして現代との繋がりについて解説していきます。
花柳病とは
花柳病とは、主に性行為を通じて感染する性感染症のことで、特に「花柳界」と呼ばれる遊郭や芸娼妓の社会で多く見られたことからこの名前がつけられ、江戸時代から昭和初期にかけて、性病を指す用語として使われていました。
代表的な病気には梅毒、淋病、軟性下疳などがあります。
これらの病気は性行為によって感染するため、遊郭で働く女性たちの間で蔓延し、効果的な治療法のなかった時代では、感染者が無症状のまま他者に感染させ、次々に感染者を増やしていきました。
とくに江戸時代の一般庶民への梅毒の感染率は50%であったとの推測もされています。梅毒の進行により鼻にできたゴム腫(鞍鼻)ができ、鼻が欠損することもあり、夜鷹などの私娼に「鼻欠け」が多かったといわれており。「鷹の名にお花お千代(お鼻落ちよ)はきついこと」などの川柳も残っています。
遊郭における花柳病
江戸時代においては、現在のように性病に対する知識や性病予防具であるコンドームもなく、客と遊女はコンドームなしで平気で性行為を行っていました。そのため、遊女は不特定多数の男と性行為を行わなければならないのにもかかわらず、いつ性病をうつされるか分からない状況でした。
現在のように抗菌薬がなく有効な治療法がないため、いったん客から性病をうつされた遊女は、今度は自身が感染源となってつぎつぎに別の客にうつし、その客は家で妻にうつす、というように遊女が媒介となって性病が広まっていきました。
江戸時代に来日したシーボルトやポンペなどの外国人医師らは、日本人のあいだに梅毒や淋病などの性病が蔓延していることを指摘しました。
また日本人の医師である、橘南谿は自身の著書にて、「今にては遊女は、上品なるも、下品なるも、一統に皆黴毒なきは無く」(遊女は上品(吉原)から下品(岡場所や夜鷹)までみな梅毒に罹っている)と記しています。
杉田玄白も晩年の著書にて、自身が診療した梅毒患者が毎年700~800人、延べ数万人に及んだと記しています。
治療
江戸時代の梅毒の治療法としては、シーボルトや杉田玄白が記したように、水銀蒸気の吸入や水銀軟膏の塗布による水銀療法が行われていましたが、水銀中毒となるものも多かったといいます。
このような治療が受けられるのは限られた人だったでしょうから、多くの人は、漢方薬などで症状を和らげるなどの対症療法を受けるしかありませんでした。
梅毒への誤解と悲惨な末路
梅毒は、感染初期に性器や皮膚に症状が出たあと潜伏期間に入ると、いったん症状がおさまるため、当時の人々はこれを自然治癒したと考え、一度治癒すると二度と梅毒には罹らないと考えていました。
そのため、いったん梅毒に罹った遊女はもう二度と罹ることはないため、妓楼からは歓迎され、感染・回復してはじめて「一人前の遊女」になると考えられていました。
しかし、完治したわけではないため、梅毒はどんどん進行していきます。
文化13年(1816年)の「世事見聞録」では、「心身労れて(つかれて)煩(わずらい)を生じ、または瘡毒にて身体崩れ……、とても本復せざる体なれば、さらに看病も加えず、干殺し同様の事になり、また首をくくり、井戸へ身を投げ、あるいは咽を突き、舌を噛むなどして変死するもあり。」
というように、自身の顔や体が崩れていくのを見て、世をはかなんで自殺する遊女も少なくありませんでした。
明治時代以降:性病対策としての公娼制と性病対策
近代の公娼制は、性病対策と軍隊の慰安を目的としてフランスで確立され、日本にも導入されました。
幕末から明治時代にかけて、開国により遊郭の需要はさらに増えました。当時の日本では性病の罹患率が高かったことから、イギリスやロシアなど各国は娼婦から性病をうつされることを問題としました。
娼妓開放令に続く1873年(明治6年)、公娼取締規則が施行され、各府県の実情に合わせて取締りが行われるようになりました。
東京においても、欧州の公娼制度をモデルとして、吉原遊郭では水道尻の裏手に設けられた梅毒検査所(現在の台東病院の場所)において月2度の梅毒の検査が義務付けられるようになりました。
1900年(明治33年)には娼妓取締規則が施行され、これまで各府県ごとに定められた規則が統一されることとなり、娼妓たちの定期的な健康診断と性病検査を行うこととなりました。
さらに、1927年(昭和2年)には花柳病予防法(昭和23年廃止)が制定・公布され、さらに性病の予防と治療が強化されました。この法律は、性感染症の蔓延を防ぐための重要な措置とされ、特に梅毒のような重篤な病気に対する意識を高める役割を果たしました。
戦後の性病と対策
戦後の日本では、戦争による社会の混乱、貧困、衛生状態の悪化など様々な問題を抱えていました。
戦後の性病は、進駐軍の駐留とともに拡大したため、GHQは日本政府に対して、性病対策を強化するための法整備や医療機関の整備を要求しました。日本政府は「花柳病予防法特例」により、全性病患者の届出義務、検査・治療の強化、予防啓発活動の推進などを実施しました。
さらに、1948年(昭和23年)に、医師による届出義務、性的接触者の追跡調査、患者の強制治療・入院などが盛り込まれた性病予防法(1998年廃止)が制定されました。この法律の下で、街娼などを摘発して保健所に連行して強制的に性病検査を受けさせる「狩込み」が行われたこともありましたが、すぐに禁止されました。性病予防は、設置されたばかりの保健所にとって重要な業務でした。
また、GHQによりペニシリンの工業的な製造技術支援により、ペニシリンが普及し、1948年には22万人いたとされる梅毒患者数は激減しました。
これらの取り組みは、戦後の日本における公衆衛生の向上に寄与し、
このように、戦後の性病はGHQによる介入と日本政府の取り組み、抗菌薬の普及などにより大幅に減少し、これらの施策は、性病だけでなく日本の公衆衛生の向上に貢献しました。
現代の性病
性病は過去の病気ではありません。
現代でも、梅毒をはじめ、クラミジア、淋病など様々な性感染症が流行しています。しかも抗菌薬の効かない耐性菌の出現などの新たな問題も生じています。
これらの病気は、早期に発見し、適切な治療を受ければ治癒するものがほとんどですが、放置すると深刻な合併症を引き起こす可能性もあります。
まとめ
今回は、花柳病の歴史、遊郭との関係、現代の性感染症との関連性について解説しました。
性病は歴史的にみても重大な感染症であり、現在においてもその理解と予防が求められています。
特に日本では性に関する教育が先進国の中でも不十分と言われており、最近では若年層における性病の増加も問題視されています。
性病は決して他人事ではありません。正しい知識を持ち、予防と早期発見による治療を心がけることが大切です。