華やかな吉原を支える人々 – 遊女だけではない、もう一つの顔
吉原遊郭といえば、美しい遊女たちが華やかに暮らす場所というイメージが強いでしょう。しかし、その華やかな世界を陰で支えていたのは、多くの奉公人や職人、商人たちでした。
遊女以外にも、吉原には様々な人々が暮らしていました。妓楼の経営者、遊女の世話をする人、料理人、そして様々な職人や商人たち。彼らは、それぞれの持ち場で、吉原の生活を支えていたのです。まるで、現代の巨大都市のように、様々な人がそれぞれの役割を担い、一つの社会を形成していたと言えるでしょう。
吉原遊郭は、遊女たちだけでなく、こうした裏方の人々の存在によって成り立っていたのです。
妓楼の人々
妓楼(遊女屋)は大きく以下の種類に分かれており、籬(まがき:通りに面した張見世の格子と奥まった場所にある入口との間にある格子)の種類から、妓楼の格が分かりました。
張見世では客が通りに立って遊女を品定めできるようになっていました。
- 大見世(惣籬):籬が全面が朱塗りの格子になっている。
- 中見世(半籬):籬の右上の四分の一があいている。
- 小見世(惣半籬):籬の上半分があいている。
- 切見世:店が数軒の長屋になっており、長屋とも局見世とも呼ばれました。
大見世、中見世、小見世は二階建てになっており、一階は楼主や下級の遊女、禿、奉公人の生活する場で、遊女の部屋や宴会用の座敷などは全て二階にあり、登楼した客はまず階段を登って二階に上がりました。
妓楼は、以下のあげるように、様々な人々によって支えられていました。
- 楼主:妓楼の経営者。妓楼の一階の奥に専用の部屋があり、家族とともに住んでいました。妓楼の営業時間は、内所と呼ばれる場所に陣取って楼内に目配りしていました。多くの遊女や奉公人だけでなく、多くの客が出入りするため、交渉事や揉め事を解決する能力や経営手腕が問われました。俗世間では「忘八(「仁義礼智忠信孝悌」の八つの徳目全てを失わなければできない商売)」と呼ばれました。これはもともとは遊郭で遊ぶ客のことでしたが、時代とともに楼主を指す言葉となりました。
- 遣手(やりて):遊女を監視・管理する監督係で、各妓楼に一人ずついました。年季が明けても行き先のない遊女がそのままとどまって務めることが多かったといいます。禿のしつけから、遊女への客あしらいや床の技術の指導、折檻まで行いました。そのため、遊女や禿からは嫌われていました。妓楼からの賃金はなく客からの祝儀や茶屋からのキックバックが主な収入であったため、金払いのよい客と分かると遊女を駆り立て、客の金払いが悪くなると遊女を遠ざけるなどしていました。
- 若い者:年齢に関係なく、妓楼で働く男の奉公人は「若い者」といわれました。
- 番頭:若い者の筆頭で、帳場を管理するのが役目でしたが、内所との関係はよく分かっていません。
- 見世番:妓楼の入口に置かれた妓夫台(ぎゆうだい)に座り、出入りする人々を見張りました。張見世で客に遊女の名を教えたり、客の指名を取り次いだりしました。
- 廻し方:遊女が客を迎える座敷は二階にありましたが、この二階の全般の取り仕切りが役目でした。遊女と客の間に立ち、座敷の準備や宴席の世話を行いました。客に揚げ代を請求するのも廻し方の仕事でした。
- 床廻し:廻し方や遣手の指示を受けて、客と遊女の寝床を準備する役目でした。
- 掛廻り:引手茶屋などから売掛金を集金する役目でした。
- 客引き:見世の外に立ち、客引きをしました。
- 雇人
- 料理番:客に出す料理をつくることもありましたが、基本は台屋を使うため、もっぱら妓楼内のまかないでした。
- 風呂番:妓楼には内湯があり、この風呂を沸かし、掃除をする役目でした。遊女は朝風呂で、妓楼に泊まった客が朝風呂に入ることもありました。
- 中郎:妓楼の内外の掃除をする役目でした。
- 不寝番:二階の廊下を拍子木を打ちながら、徹夜で時刻を告げて回る役目でした。遊女と客の寝間に置かれた行灯への油の補充も行いました。
- お針:裁縫する女性でした。妓楼に住み込むものと、近所から通うものがいました。遊女の衣装の仕立てから、ちょっとした着物の継ぎ接ぎまで行いました。
- 内芸者:妓楼に住み込みの芸者。他にも芸者には、芸者の取次所であった見番に登録し、妓楼の宴席に呼び出される「見番芸者」がいました。客と遊女の宴席の場を盛り上げるのが役目でした。
- 下男下女:料理番の下働きや配膳、掃除・洗濯、水汲みなどに従事していました。
茶屋と芸人
- 引手茶屋:大門外の五十間道の両脇にも茶屋はありましたが、格式が高いのは仲の町の茶屋でした。
- 客の相談・世話役:中見世以下は、直接登楼することができましたが、大見世では引手茶屋の案内がない客は受け入れないため、大見世で遊ぶなら必須でした。引手茶屋の機嫌を損ねると妓楼は客を案内してもらえなくなるため、妓楼に対する立場も強かったといいます。
- 遊興費の立替え:引手茶屋を通して遊ぶ場合、遊興費はすべて茶屋が立て替え、あとから客にまとめて請求する仕組みでした。そのため、妓楼は個別に客に請求せずにすむことから、引手茶屋を通した客を優遇しました。
- 芸人
- 幇間(ほうかん)(太鼓持ちとも):吉原の長屋に住み、見番に登録していました。妓楼の宴席にて、客の機嫌を取り、小咄をしたり、芸者の三味線に合わせて唄を披露したり踊ったりしました。
- 芸者:見番芸者。芸者は二人一組で妓楼に出向きました。これは芸者と客が深い仲にならないよう、お互いに監視させるためでした。
- 大道芸人(太神楽(だいかぐら)):太鼓と笛のお囃子で獅子舞、曲鞠、皿廻しなどを演じました。
台屋と湯屋
- 台屋:仕出し料理屋のこと。台の物と呼ばれる、亀や鶴、松竹梅などの縁起物を飾り付けた料理をつくり、妓楼への出前を行っていました。
- 湯屋:妓楼の内風呂は狭かったため、気分転換も兼ねて遊女がしばしば利用したといいます。
妓楼に出入りした商人と職人
- 髪結:髪は遊女にとって大事なもので魂が宿るといいました。毎日昼前に女髪結が妓楼に出向き、遊女の髪を結いました。
- 小間物問屋:紅や白粉(おしろい)、髪飾りをあつかいました。荷を担いで妓楼に訪れ、品物を見せて遊女に売り込みました。
- 呉服屋:呉服屋にとって最大の得意先は、吉原の遊女と江戸城や大名屋敷の奥女中でした。妓楼に反物を持参し売り込みました。遊女にとっても呉服屋の反物をながめるのは楽しみのひとつであったといいます。
その他
- 易者:遊女は囚われの身であったことから、占いが好きでした。
- 文使い:遊女と客の間の手紙のやりとりを仲介する専門業者でした。特に、遊女の手紙を客に届けるときには親や妻に知られないよう、道を聞くふりをして渡すなど、うまく渡す必要がありました。
- 按摩:盲目のものも目の見えるものもいました。妓楼に呼ばれ、楼主や遊女、客に揉み療治や針療治をほどこしました。
- 貸本屋:本を詰めた細長い箱を大風呂敷に包み、これを背負って妓楼をまわりました。吉原の遊女はたいてい読み書きができ、遊郭の外に出ることができないため、読書が気晴らしであり、楽しみでした。
- 行商人:ありとあらゆる行商人がやって来て、呼び声をあげながら通りを歩きました。人が密集しており、金遣いの荒い人も多い場所だったことから、行商人にとって効率よく儲けられる場所でした。
- 肥汲み:夜が明けるのと同時に、近隣から肥桶を天秤棒で担いだ農民が続々とやって来ました。多くの人が住み、多くの客が訪れるため、あっという間に便所があふれてしまうため、毎日のように汲み取らねばなりませんでした。
- 火の番:印半纏、紺の腹掛け、股引、三尺帯といういでたちで、片手に大提灯、もう片手の鉄棒を鳴らし、掛け声を掛けながら深夜の吉原をまわりました。
- 付馬:不足した遊興費を受け取るために、客の家まで付いていき、金を受け取りました。
- 物乞い:虚無僧や托鉢僧、願人坊主のほか、さまざまな物乞いがやって来て、妓楼の入口にて施しを求めました。
- 女衒(ぜげん):浅草の山谷町や田町のあたりに多く住んでいました。江戸の長屋の娘や事業に失敗した商家の娘、農村をまわって貧しい農家の娘を買い、妓楼に売っていました。誘拐した娘や男にだまされた女性を売り飛ばす悪質なものもいたといいます。建前上は年季奉公のため、親と女衒、女衒と妓楼の間で証文をとりかわしていました。
- 船宿:山谷堀(日本堤と並行していた三ノ輪と隅田川を結ぶ水路)に数十軒ありました。猪牙舟(ちょきぶね)や屋根舟を所有しており、客を運んだほか、遊郭へ遊びに行く客が着替えを行う場でもありました。女将や若い者が吉原まで客の送迎を行ったり、座敷での宴席、男女の密会の場にもなっていました。遊女と客のあいだの手紙を取り次ぐこともありました。
- 駕籠かき人足:山谷堀には駕籠かき人足が多く待機して客を運びました。また大門の外にも遊郭から帰る客を待つ駕籠がたくさん待機していました。
裏茶屋:遊女の逢引
吉原遊郭の中には男女が密会する裏茶屋と呼ばれる出会茶屋がありました。幇間や引手茶屋や船宿の若い者、小間物問屋、髪結、太神楽の芸人などの吉原の関係者が、遊女と密会していたといいます。
まとめ:吉原遊郭の裏方 – 花街を支えた人々
この記事では、吉原遊郭を支えた職人たちについて解説しました。
華やかな遊女たちの影には、多くの職人たちが存在し、それぞれの技術で吉原遊郭の生活を支えていました。建築、衣装、食、そして、その他様々な分野の職人たちが、吉原遊郭というユニークな文化を築き上げていたのです。
吉原遊郭の歴史を学ぶ際には、こうした裏方の人々の存在にも目を向けてみましょう。