はじめに
吉原遊廓。江戸時代、きらびやかな文化を花開かせた場所。しかし、その華やかさの裏では多くの遊女たちが過酷な境遇に置かれていました。彼女たちはなぜ遊廓に身を置かれていたのでしょうか?今回は、吉原遊廓の遊女たちの知られざる現実と、その中で懸命に生きた女性たちの姿に迫ります。
遊女の呼び方
遊女には様々な呼び名があり、女郎や傾城とも呼ばれました。江戸時代では女郎が一般的だったといいます。また傾城とは、もともと中国の故事で美人が色香で城や国を傾けてしまうことに由来します。
遊女は妓楼(遊女屋)から与えられた源氏名を名乗り、妓楼ごとに上級の遊女の源氏名には「格」があり、由緒ある源氏名は引き継がれました。例えば吉原では三浦屋の「高尾」が有名です。
遊女になる女性:身売りとは
江戸幕府は、表向きは人身売買を禁止していました。そのため、遊女は年季と給金を定めて妓楼に奉公する「奉公人」とされており、証文も取り交わしていました。しかし実際には、暮らしに困窮した親が給金を前金で受け取り、そのかわりに娘を売っていたため、人身売買と変わりませんでした。
身売りには、親や親戚が直接娘を妓楼に売る場合と、遠隔地の場合は、女衒(ぜげん)という仲介業者を介す場合がありました。女衒は親から買ったお金に経費と利益を上乗せして妓楼に売り渡しました。女衒の中には女性を誘拐したり、騙して妓楼に売り飛ばす悪質な者もいたといいます。神隠しにより行方不明になった子供の一部はこのような目にあっていたのではともいわれています。
江戸時代の初め頃には、お家取り潰しなどにより職を失って困窮した武家の娘も多かったといいます。また商家においても、病気や事業の失敗により娘を売ることも多々ありました。
また江戸時代は、三大飢饉(享保、天明、天保)に加えて数十回もの飢饉があり、そのたびに東北地方を中心として数万人単位で農民の餓死が発生しました。これは、寒冷地での栽培には向かない当時の水稲を幕府が年貢として強制したことにそもそもの問題がありました。杉田玄白の「後見草」では、空腹で半狂乱になった大人が子供を殺して食べた、死体を切り取って食べた、などの記載が見られます。
このように飢饉が起きれば多数の餓死者が出るような状況でした。そのため娘を持つ農家では、口減らしや借金返済のために、娘を妓楼に売るケースが飢饉による食糧不足や米価の高騰などのたびに増加しました。
白米は、年貢として大部分を納めなければならず、特別なときしか食べられない貴重なものでした。一方、吉原では白米が毎日食べられ、身につける衣装や寝起きする家もましでした。そのため、貧しい農家に生れた娘からすれば、遊郭の方が衣食住はまともだったのかもしれません。
また、娘がみずから身売りを申し出た場合でも、それは両親や兄弟を助けるためで、自らを犠牲にして家族を救うためでした。そのため「淫乱で男好きだから遊女になった」のではなく、遊女は親孝行者であり、身売りは親孝行であると当時の社会では認識されていたといいます。
身売りの金額は、幼い女の子の場合で三~五両、娘の場合で十数両~数十両といったところでした。また、町奉行が岡場所の取締りを行って遊女を競売に掛け、それを妓楼が数両で競り落とすこともありました。
幕末に来日したオランダ人医師ポンペは「日本滞在見聞記」にて、日本には売春婦が驚くほどたくさんいると述べた一方で、「日本の貧しい親たちは、自分の娘を五歳から六歳くらいの年端もいかない、自分の運命について何も知らない時期に遊女屋に売られてしまうのが普通である。この点がヨーロッパとは大きく異なっている。ヨーロッパでの売春は、個人が自分の意思で行うものであり、だからこそ売春婦は社会から蔑視されなければならない。日本では売春婦本人に罪はない」と述べており、当時の遊女の置かれた境遇に理解を示しました。
禿から遊女になるまで
妓楼に売られた女性は、売られたときの年齢により即遊女となるか、遊女の前に禿として見習いから育てられました。
- 禿(かむろ)
- 幼い頃に妓楼に売られた娘は、禿となり、先輩の遊女に対して1~3人つきました。先輩の遊女の付き人や雑用を努め、遊女になるための知識や技術を学びましたが、遊女になるまでの生活費や教育費などはすべて借金になりました。
- また禿の中でも容姿などの素質があると楼主が判断すると、引込禿として特別に育てられ、三味線や唄などの芸事の特訓が行われました。
- 新造出し
- 禿が新造になるときのお披露目を「新造出し」といい、おおよそ13~14歳の頃だったといいます。本格的に先輩遊女の下で遊女としての接客法を習いました。
- 新造出しの10日ほど前に、妓楼内をはじめ引手茶屋や船宿にも蕎麦や赤飯を配りました。当日は、妓楼の前に蒸籠を積み重ね、一番上に白木の台を載せ、そこに縮緬や緞子(どんす)などの反物を飾りました。
- こうしたお披露目に掛かる費用は多額でしたが、これらは全て姉女郎である花魁の負担でした。そのため、必要なお金は馴染み客から出してもらうか、用意できなければ自分が借金を負うことになりました。
- 水揚げ
- 遊女として働き出すにあたり、男性との性行為の初体験のことを水揚げといい、幼い頃に売られてきた禿や、未婚の生娘の場合には、突出しを行う前に水揚げという儀式を行いました。
- この言葉は、商人が荷物を舟から下ろして初めて店頭に出すことを「水揚げ」と呼んだことにちなんだといわれています。
- 水揚げは、女性の扱いに慣れた40歳以上(当時は初老)の、気心の知れた客の男性に依頼することが多かったといいます。というのも、妓楼にとって遊女は大切な商品ですから、下手な相手に依頼して女性を傷つけたりトラウマを与えて男性恐怖症や嫌悪感により働けなくなってしまっては困ります。そのためこのような配慮があったといいます。
- 突出し
- 新造が初めて客を取り、一人前の遊女として働き出すのを突出しといいました。
- 突出しを行う遊女は、この日に初めてお歯黒をつけました。当時、お歯黒は成人もしくは既婚の証でしたが、遊女と床を一緒にするというのは仮初めの結婚であると考えられていたためです。
- 道中の突出しは、将来の最上位の遊女である呼び出し昼三や昼三候補になる振袖新造が対象であったため、着物や夜具の新調、お披露目も盛大に行い7日間華やかな衣装を着て、遊郭内を練り歩いたといいます。そのためかなりの費用が掛かりましたが、これらの費用は原則として妓楼の負担とされていました。
- 一方で、張見世の突出しは、呼び出し昼三や昼三にはなれない留袖新造の張見世でのお披露目で、質素なものでした。
年季と病気
遊郭の休みは年に2回(正月1日とお盆)に2日間のみで、その他は営業していました。そのため、遊女は年季があけるまでの連日連夜、不特定多数の男との性行為を強制されるものであったことから、遊女の境遇は「苦界(くがい)」といわれました。
一般的に、吉原の遊女は「年季は最長十年、二十七歳まで」という原則がありましたが、禿の場合は客を取り始めてから十年のため、実際には10年以上でした。
また妓楼で生活するなかでも様々な出費がかさみ、借金を負うこともありました。その借金を返済するために、年季が明けたあとも働かざるをえず、他の妓楼に売られる(鞍替え)こともありました。
梅毒や淋病をはじめとした性病のほかにも、集団で生活をするため労咳(肺結核)などの感染症を患うことや、十分な食事が与えられず栄養失調や過労も多かったでしょう。それでも休むことはめったに許されませんでした。
そのため、健康な体で無事に年季明けを迎える遊女は少なく、多くが二十代で病死したと考えられます。
全盛の花魁や稼ぎの良い遊女が病気になったときは、妓楼も医者を呼んで治療させました。静養が必要と判断された場合は、費用は遊女持ちで寮にて出養生させました。
しかし、すでに盛りを過ぎた遊女や稼ぎの良くない遊女の場合は、妓楼の「行灯部屋」などに閉じ込め、ろくな治療もせずに放置したといいます。
年季が明けた遊女には、楼主が身売り証文を返却して、四郎兵衛会所を通るための手形を渡し、晴れて大門から外に出ることができました。
月経・避妊と妊娠・堕胎
- 月経
- 現代のように衛生的な生理用品はなかったため、折りたたんだ薄い紙(御簾紙)を局部に当ててふんどし状の月経帯を締めました。当時、月経は「月役七日」とも呼ばれ、夫婦間でもこの間は性交しないという風習がありました。
- 妓楼が遊女にも七日間の休みを許したとは考えにくく、実際にはもっと短かったと推測されます。鍋墨(鍋底についたすす)を飲むと月経が早く終わるという迷信があったため、これを湯に溶いて飲む遊女もいたといいます。
- 避妊法
- 当時の避妊法は、折りたたんだ御簾紙を口の中で柔らかくなるまで噛んだ後、それを丸めて膣に詰める程度のものでした。また行為後には必ず便所にて排尿し、湯で局部を洗ったといいます。
- 臍の下にあるツボが避妊に効果があるという迷信があり、特に二月二日は一年で最も効果があるという言い伝えから、この日に多くの遊女がお灸をすえました。
- 多くの遊女は、過度な性交と性病などのため妊娠しにくくなっていましたが、現代から考えると、不十分な避妊法であり、妊娠することもありました。
- 妊娠と堕胎
- 妓楼にとっても、妊娠されるとその期間は稼げないのと商品価値が下がるため痛手でした。そのため、妊娠が分かると妓楼は「中条流」の堕胎医を呼んで堕胎させました。
- 中条流とは、「古血おろし」「子腐り薬」などと呼ばれた水銀入りの膣座薬を投薬するもので、もともとこれは難産の際に母体だけでも助けるための最終手段でしたが、江戸時代の中頃より堕胎目的での使用が主となったといいます。
- 堕胎薬は高価なため、ドクダミやスイセン、ユリなどの毒のある植物の球根を煎じて飲むなどして堕胎していたといいます。
- ただし、これらの方法により体調を崩したり、失敗して死亡する遊女も少なくなかったでしょう。そのため、全盛の花魁が妊娠したときは大事をとって寮(別荘)で出産させることもあったといいます。生まれた子供はたいてい里子に出されるか、女の子の場合は禿として育てられる者もいたといいます。
遊女の恋:心中と足抜け(脱走)
客に惚れさせ、客からお金を引っ張るのが遊女の仕事でしたが、恋に落ちてしまうこともありました。
遊女の惚れた男を情男(いろ)とも間夫(まぶ)とも言い、「客に身体は許しても心は許さず、心を許すのは惚れた情男だけ」という心意気でした。情男の金がなくなれば、自分の借金にしてでも登楼させたといいます。また遊女に金をせびる「ヒモ」男もいました。
心中:江戸時代、心中は幕府により禁止されていました。もし心中をはかった場合はその結果に応じて以下のように処分されました。
- 男女とも死亡した場合:遺骸は取り捨てとして葬儀、埋葬は禁止
- 失敗して片方が生存の場合:生存者は下手人とされ、死罪(斬首)
- 失敗して両方とも生存の場合:男女とも三日晒し(罪状を記した札とともに縛り上げたまま公衆に晒す)のあと、非人への身柄引き渡し
心中が起こると妓楼は大打撃のため(商品の遊女の損失、汚れた部屋の模様替え、悪い評判により客足が遠のき売上低下)、遣手や若い者が遊女を厳重に監視し、相手の客も登楼させないようにしました。
足抜け:遊郭の周囲は高い塀とお歯黒どぶに囲まれており、唯一の出入り口の大門では四郎兵衛会所による監視があったため、逃亡は困難でした。それでも妓楼の虐待に耐えかね、あるいは情男との結婚を夢見て、お歯黒どぶに渡り板をかけ脱出が試みられることがありました。遊女一人では脱出はできないため、たいていは男が手引しました。
成功してしまうと他の遊女にしめしがつかないため、もし脱出できたとしても妓楼がすぐに追手を放って探し出したといい、多くは失敗したといわれています。
折檻・仕置き
お茶をひく状態(客がつかず暇にしていること)が続く遊女や、仮病を使っていると思われた遊女、客の機嫌をそこねて逃してしまった遊女、情男に惚れてしまった遊女(他の客を粗末に扱ってしまう恐れがある)、など楼主や遣手の言いつけを守らない遊女は折檻を受けました。
折檻をしたのはおもに楼主の女房や遣手でした。顔や体を傷つけるような折檻はまれであったといいますが、殴ったり、便所掃除や数日間の絶食などの罰を与えました。真っ裸にして苧縄(麻縄)で縛り、水を浴びせるなどの折檻もありました。麻縄は水を含むと縮んで体が締め付けられるため、その苦痛に泣き叫んだといいます。
心中が未遂に終わった場合や脱走を試みた場合の折檻は苛烈だったといい、竹べらで気絶するまで打ち叩いたり、遊女を真っ裸にして口には猿轡(さるぐつわ)をかませ、両手足を縛って梁から吊るして殴りつける「つりつり」という折檻を行ったといいます。苛烈な折檻により亡くなってしまう遊女もいました。
また、河岸見世や岡場所や宿場など格の低い女郎屋に売ってしまう鞍替えも仕置きとして存在しました。
遊女のその後:身請け
年季が明ける前に吉原を出るには「身請け」がありました。身請けしたい客が妓楼に金を払って身請証文を買い取り、遊女の身柄を貰い受けました。
身請けには莫大な金(数百両)が必要でした。妓楼に支払う身代金の他、朋輩(同僚)や妹分の遊女、妓楼の奉公人たち、引手茶屋、幇間、芸者への挨拶と金品を送り、送別の宴も客が負担しました。
妓楼が身請け代を釣り上げ、結果として客が身請けを断念することもあったといいます。
身請けされる遊女は才色兼備かつ幸運に恵まれたごく一握りだけでした。
遊女のその後
無事に年季が明けても実家に戻ることのできた女性は少なかったといいます。すでに実家は兄弟が継いでおり、今さら姉妹が戻ってきても迷惑なだけで、こころよく受け入れてくれる実家はほとんどありませんでした。他に身寄りもないため、誰かの妻や妾となるか、別の場所で遊女として暮らすかしかありませんでした。
また結婚したとしても、元遊女の女性は、過酷な性行為と病気により子供ができないのが普通であったといいます。
- 町人との結婚
- とくに、禿のうちから妓楼で生活してきた女性は、吉原の外の世界のことをよく知りません。そのため、炊事や洗濯・裁縫などの家事全般や世間の常識もなかったといいます。そのため、庶民の女房として暮らしていくには困難でした。
- 裕福な町人や武士の妻・妾
- 裕福な町人の妻や武士の妾になった場合は、家事を行う女中や下男下女がいるため、なんとかやっていけたといいます。
- 吉原関係者の妻
- 幇間や見世の楼主、料理屋の亭主など妓楼に関係する男性と結婚する女性も多かったといいます。
- 遣手や番頭新造
- 遣手は各妓楼に一人ずつおり、他に行くあてのない遊女がそのまま妓楼にとどまって遊女や禿を監視・管理しました。
- 番頭新造は花魁などの上級の遊女の雑用を引き受けました。基本的に客をとることはありませんでした。
- 鞍替えや岡場所・宿場の遊女
- 世帯を持てなかった遊女や借金の残った遊女は、吉原の河岸見世や外の岡場所などに流れていくこともありました。生活していくうえでは売春行為を続けるしかなかったのです。ただ、元吉原の遊女は岡場所や宿場の女郎になっても「掃き溜めの鶴」と評されるほど、遊女としてのしつけが良かったといいます。
まとめ
吉原遊廓の遊女たちは、多くが貧困による人身売買により遊廓に身を置いていました。彼女たちは自由を奪われ、厳しい掟の中で借金返済のために働き続けました。過酷な労働環境の中で多くの遊女たちが心身に傷を負い、短い生涯を終えました。しかし、そんな中でも懸命に生き、自らの運命を切り開こうとした女性たちでした。遊女たちの物語は、私たちに人間の強さ、そして尊厳について改めて考えさせてくれるでしょう。