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「吉原遊郭の食文化 – 遊興の場で育まれた江戸の味」

「吉原遊郭の食文化 - 遊興の場で育まれた江戸の味」 NEWS

吉原遊郭と食:どんな料理が出されていた?

吉原遊郭といえば、きらびやかな衣装の遊女や豪華な建物が思い浮かびますが、贅を尽くした料理や粋な演出で客をもてなす工夫が凝らされていました。この記事では、吉原遊廓で親しまれた食文化を、当時の料理や食材を通してご案内します。

台の物:見た目は豪華な仕出し料理

吉原遊郭の内外には、茶屋や妓楼に「台屋(台とは膳台のこと)」と呼ばれる、専門の仕出し屋がありました。浮世絵や錦絵に描かれた酒宴の席で、足つきのお膳に盆栽のような木や花とともに盛られた料理が描かれていることがありますが、それが「台の物」でした。

茶屋から注文を受けると、「松竹梅」などのめでたさを象徴する飾り付けがされた料理を、台屋の若い者が頭に上に乗せて運んで宴席まで届けました。

なお台屋には、客の宴会用の料理を頼むだけでなく、遊女が自分用の食事の際に出前を頼むこともあったといいます。

「当世十二時之内 未之刻」(部分)(歌川芳虎)(東京都立図書館TOKYOアーカイブより)頭に料理を載せて階段を登ろうとする若い者の姿が見えます。

「台の物」は、客を喜ばせるように盛り付けが派手で凝っていましたが、食べて味わうというよりは、見て楽しむものであったそうです。値段は、時代により異なりますが金一分で硯蓋(口取り肴)、刺身、煮物、焼物の4種でしたが、遊女の揚代と比べても高価なものでした。

「五大力恋緘(三代目 歌川豊国)」国立国会図書館デジタルアーカイブより出典。これは別の遊郭を舞台とした歌舞伎の一場面ですが、「台の物」といえば中央の丸い大きな朱塗りの台に盛られた料理でした。大きな鯛の姿焼きが見えます。

吉原の名物・有名店や行商人

吉原遊郭は、江戸を代表する観光地でもあったため、有名な商店や名物も多く存在しました。

袖の梅:これは二日酔いの丸薬でした。妓楼に常備してあり、遊女が客に勧めました。

巻煎餅巻いた煎餅で、折詰にして進物(贈り物)として用いました。江戸町二丁目の万屋太郎兵衛が初めて作ったといい、その万屋がのちに吉原を代表する菓子屋「竹村伊勢」になったいいます。

最中の月:竹村伊勢が売り出した最中。あんころ餅の一種であったという説もあります。

甘露梅(かんろばい):紫蘇の葉で梅の実を巻いた砂糖漬けです。松屋庄兵衛が初めて作ったとされていますが、天保年間(1830~1844年頃)には、引手茶屋が5月になると一斉に作り、自家製の甘露梅を客への進物にしたそうです。

山屋の豆腐:山屋は揚屋町にある豆腐屋で、この店の豆腐は、「山や豆腐」といって珍重されました。

釣瓶蕎麦(つるべそば):大門外の五十間道にある、増田屋の蕎麦でした。

焼唐もろこし:醤油を塗って香ばしく焼き上げた焼きとうもろこしの屋台も名物だったそうで、客が素見(すけん、冷やかしのこと)をする際に、焼きとうもろこしは片手で食べられるため、歩き食いするのに最適でした。また遊女にも人気で、張見世の格子越しに買い求めたといいます。

玉子売り:たまご売りが「たまァご、たまごゥ」と声をあげながら売っていました。当時、鶏卵は非常に高価なもので、庶民には手の出る食材ではありませんでしたが、ゆで卵を食べると精がつくというので遊客や遊女の間で人気が高かったといいます。

夜鷹そば:行商の蕎麦屋である、夜鷹蕎麦も明け方まで営業していました。

寿司売り:寿司も人気があり、「あじのすぅ、こはだのすぅ」などと声を張り上げながらアジやコハダなどの寿司を売り廻ったといいます。

桜鍋:現代に受け継がれる名物料理

一般的に馬肉が食べられるようになったのは明治時代になってからですが、馬肉の食文化が吉原で生まれ、東京の郷土料理となりました。全盛期には20軒以上の桜鍋を出す店があり、遊郭から帰る客や遊びに行く前の客でにぎわったといいます。現在でも、日本堤の土手通りに「中江」というさくら鍋の店が残っています。

もともと明治の文明開化をきっかけに牛肉を食べる習慣が生まれて東京で流行しましたが、牛肉の供給が不足して価格が高騰したため、その代わりとして馬肉が食べられるようになったということです。

現在でも「中江」の並びには馬肉の精肉店がありますが、当時、吉原で遊ぶ資金を作るために乗ってきた馬を売る庶民が多くいたからといわれています。馬肉をあつかう店を総称して「けとばし屋」ともいい、これは馬が後ろ脚で敵を蹴飛ばすことに由来します。

桜鍋が流行した理由には、ただ安価だっただけでなく、当時は不治の病であった梅毒への感染予防効果があるという迷信があったためともいわれています。遊郭の行き帰りに馬肉を食べて「馬がけとばすように梅毒もけとばす」ことができるとされていたようです。

また馬肉を「さくら」と呼ぶのは、獣の肉を食べることが禁止されていた時代の「隠語」として使われていたことに由来します。馬肉を切った時に切り口の赤身部分が鮮やかな「さくら色」であったこと、桜の咲く季節の馬肉は脂がのって美しいこと、幕府直轄の牧場が佐倉(現在の千葉県)にあったことなど諸説あります。

他にも鹿肉を「もみじ」、猪肉を「ぼたん」などと呼びますが、これらは生き物の殺生を禁じた仏教の「殺生戒」に反するため、植物の名前を当てることで世間からの批判や良心の呵責が生じないようにしたためといわれています。

まとめ:吉原遊郭の食文化

吉原遊郭の宴は、単なる酒肴の提供にとどまらず、遊女たちの美しさや教養、そして遊郭全体の華やかさを演出する重要な要素でした。贅を尽くした料理や様々な名物など吉原ならではの食文化は江戸の粋を体現するものでした。現代においてもその影響は様々な形で残っており、当時の文化を偲ぶことができます。

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