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「吉原遊郭の年中行事 – 四季折々の華やかな祭り」

「吉原遊郭の年中行事 - 四季折々の華やかな祭り」 NEWS

吉原独特の年中行事や祭り。その由来と意味、現代への継承を紹介します。

吉原遊郭と年中行事

吉原遊郭では、客を呼び、楽しませるための行事が年中催されていました。この記事では吉原の代表的な行事についてとりあげます。

正月

元日になると、楼主から遊女に新しい衣装が贈られました。これを「お仕着せ」といいました。この日は遊郭は休みでした。他の休みは7月13日(お盆休み)のみでした。

正月2日になると、遊女たちは日頃世話になっている茶屋などに挨拶回りをしました。この日には大黒舞や獅子舞などが行われ、またその年最初の「紋日(後述)」ということもあり、おおいに賑わったとのことです。

3月:春の夜桜

春の夜桜は、吉原遊郭で最も華やかなものでした。遊郭の中央通りには桜が植えられ、夜には提灯が灯され、幻想的な雰囲気が漂っていました。

この桜は、桜の花が咲くこの季節だけ根付きのまま移植される桜で、費用は妓楼や茶屋などが分担して負担していました。

ちょうど桜が3月1日と3日の紋日(後述)に開花して客寄せできるように、その年の寒暖によって桜の木を植える日を調整していたとの説もあります。

この桜並木で行われる花魁道中を見ようと、たくさんの人が見物に訪れたそうで、この期間は、普段は遊郭に立ち入ることのできない一般女性にも開放されていたといいます。

6月末~7月末:玉菊灯籠

6月晦日から7月晦日までの1ヶ月間は、「玉菊灯籠」が茶屋の軒先に吊るされました。

「玉菊」とは、角町の中万字屋勘兵衛お抱えの才色兼備の花魁で、多くの人から慕われていました。この「玉菊」が若くして亡くなったのを偲び、お盆に灯籠を飾ってその霊を弔ったのが始まりで、毎年行われる恒例行事になりました。

8月:八朔(はっさく)

8月1日のことを「八朔」といい、この日は遊女が白い衣装を着て客を迎えたといいます。

由来には諸説ありますが、徳川家康が1590年の8月1日に江戸に入府したとされており、幕府にとっては最も重要な行事でした。毎年8月1日には、江戸城では、将軍や大名諸侯が白帷子に長袴で「八朔の儀式」を行いました。吉原ではこの武家社会の儀式をまねたという説です。

8月:俄(にわか)

俄は、8月1日から「晴天の日」のみ30日間続きました。雨が多い年は10月まで行われることもあったとのこと。

俄の日には、芸者、茶屋や妓楼の奉公人などが参加し、鳴り物つきで踊りや芝居をしながらパレードのように練り歩いたそうです。

11月:酉の市

「酉の日」とは、十二支の「酉(とり)」にあたる日のことで、12日ごとに巡ってきました。

11月の「酉の日」になると、吉原の近くにある鷲(おおとり)神社で「酉の市」が開かれました。

普段の吉原の出入り口は「大門」のみですが、酉の市の日だけは、鷲神社側にある非常扉を開けて、参詣客を呼び込みました。

紋日(もんび):出費が倍になる行事

「紋日」とは、「物日」の転訛で、日常(ケ)とは違った晴(ハレ)の日でした。紋日には正月や五節句(人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日))、毎月1日、15日、晦日(つごもり(月隠り)の訛り。旧暦(太陰暦)では月末に月が見えなくなってしまうことから。)などが当てられていました。

紋日には、遊女の揚代や食事代、祝儀などを通常の2倍支払わなければなりませんでした。店としては、儲けが倍になるため良いことですから、もともと年に25日程度あった紋日ですが、多いときには年に100日近くまで増えたそうです。

この紋日には、遊女は必ず客をとらなければならなかったため、馴染客に来てもらおうと文を書くなど必死になりますが、客の方も紋日のたびに通っていては破産してしまいますから悩ましいところでした。

現代に受け継がれる吉原の祭り

吉原遊郭は、1958年に廃止されましたが、一部の年中行事は、現代にも受け継がれています。例えば、吉原神社の例大祭(毎年5月)や、酉の市(毎年11月)になると、多くの人で賑わいます。

まとめ:吉原遊郭の年中行事 – 四季折々の華やかな祭り

この記事では、吉原遊郭の年中行事について解説しました。

吉原遊郭では、多くの客を呼び、楽しませるために四季折々に様々な行事が行われていました。

祭りやイベントは、遊女たちにとって、楽しみであると同時に書き入れ時であり、忙しいものであったでしょう。

吉原遊郭の年中行事を通して、当時の文化や風俗を垣間みることができます。

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