吉原遊廓の大衆化と衰退のはじまり
元和4(1618)年に開業した当初の元吉原は「歴々(大名など身分の高い)の武士」を主な客として繁盛していました。そして、明暦3(1657)年の移転により新吉原になってからは一時期禁止されていた「夜売り(夜間の営業)」が再び許可されることとなり、徐々に大衆化しつつ興隆していました。
元禄期(1688~1704)には、材木商などの豪商が大金を投じて遊興するようになり、客層は徐々に武士から町人に移っていました。
江戸は火事が多く、大火のあとには必ず復興の特需が起きるため、いち早く材木を買い占めて高く売ることにより巨万の富を得ていたのが材木商でした。
なかでも2代目の紀伊国屋文左衛門(紀文)は、大門を締めさせて(=吉原を貸し切りにして)遊んだ、などという逸話も残っています。このような遊興ができた理由としては、お金の使い道がなかったことがあげられます。現代なら大金を稼いでも使い道はたくさんありますが、当時は買うものがありませんでした。他の事業に投資してお金を稼いだとしても同様でしょう。そのためどこかで派手に豪遊するぐらいしか使い道がなかったのです。
とはいえ、そのおかげで遊廓も繁盛し、文化の発信地として花開いたとも言えます。
享保期(1716~1735)頃になると、吉原遊廓の人気に陰りが見え始めました。主な原因としては、下記のように他の遊女屋の台頭と武家の財政難などがあげられます。そのため、吉原も伝統と格式に頼った経営では厳しくなっていきました。
- 岡場所や宿場の遊女屋の台頭:とくに岡場所は江戸市中にあることから利便性が高く、遊ぶために面倒な手続きもいらず、揚代も割安でした。
- 武家の財政難:武家の財政の悪化により質素倹約を求められるようになり、派手に遊ぶ余裕がなくなりました。
- 武家の出入り禁止:元禄6(1693)年には「歴々」、享保20(1735)年には「旗本」の「悪所(吉原遊廓のこと)」への出入りを禁じる町触(町人に対して出された法令)が出されました。
収入が減って遊女の教育にお金をかけられなくなったこと、身分が高くて教養を楽しむ客が減ったことなどから、太夫や格子といった上級遊女や揚屋制度は宝暦期(1751~1764)頃になくなり、庶民(とはいっても貧乏人には縁遠い)を客にするため、吉原遊廓は大衆化路線をとることとなりました。
それにともない、一時期増えすぎていた紋日を大幅に減らして客の金銭的負担を軽くし、不実の客への制裁もなくなりました。それでも岡場所や宿場に向かう客の流れは大きく変えられず、有名妓楼が経営不振となり倒産してしまうことも珍しいことではなくったといいます。
このような時代に吉原の貸本屋から事業を始めた蔦屋重三郎は、吉原細見の改良や遊廓を舞台にした洒落本や黄表紙、遊女の浮世絵などを通じて吉原遊廓や遊女のイメージアップに取り組んだのでしょう。
岡場所の取締と吉原離れ
吉原は岡場所を商売敵とみて、頻繁に町奉行所に取締りを要請していました。岡場所は違法営業であるため町奉行の取締りの対象でしたが、あまり真剣に取り締まらなかったといいます。そのため、岡場所は宝暦から天明頃(1751年~1788年)頃まで興隆しました。
ところが、天明7(1787)年に始まった老中松平定信による寛政の改革にでは岡場所の多くが取り潰されました。化政期(1804年~1830年)に復活しましたが、天保12(1841)年に始まった老中水野忠邦による天保の改革では、取締りが徹底的に行われ壊滅的になりました。
このとき取り締まられた岡場所の遊女たちはすべて吉原に送られることとなり、その結果として、吉原の質を下げることになりました。もともと岡場所の遊女は、吉原の遊女のように幼い頃からの教育がなされていなかったためです。吉原に来る客は格式を大事にする客でしたから、相手の遊女が岡場所の遊女では、吉原に行く意味がなくなります。こうして岡場所を取り締まることで吉原の客離れが進む、という皮肉な結果をもたらしました。
そして繁盛するときは、吉原が全焼して「仮宅」で安価に遊べるときに庶民が押し寄せてきたときであったり、後述のように揚代が割引がされたときであったといいます。
幕末になると、浪人や諸藩の下級武士がほとんど無銭遊興的に足を運ぶこともあったといいます。
遊女の大安売り
江戸時代末期の嘉永4(1851)年、経営不振の妓楼、角町の万字屋が起死回生を期して「遊女大安売り」の引札(広告チラシ)を配布しました。
例えば、座敷持ちを金一分のところ銀十二匁(金一両=銀六十匁として2割引)、部屋持ちを金二朱のところ銀六匁などのように値下げし、床花などの祝儀は任意、客に余計な負担を強いる引手茶屋や船宿からの客は断る、といった具合でした。
これに触発されて他の妓楼も同様の値下げを行い、なかには半額の値下げを行う妓楼もありました。安売りした妓楼には客がどっと押し寄せ、そのしわ寄せは遊女へと向かうこととなりました。
このような価格競争をしながら、幕府の終焉と明治時代を迎えることとなりました。
まとめ
江戸時代、文化の発信地として大きな役割を果たした吉原遊廓の栄華は、時代の流れとともに衰え始めました。社会の変化の中で、徐々にその姿を変えていきます。今回は、吉原遊廓の衰退の過程と、その背景について解説しました。