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吉原遊廓の変遷:明治・大正・昭和 – 時代の流れと遊廓の盛衰

吉原遊廓の変遷:明治・大正・昭和 - 時代の流れと遊廓の盛衰 NEWS

妓楼から貸座敷へ

江戸幕府が倒れ、明治政府となってからも吉原の営業は続いていましたが、マリア・ルス号事件における指摘を受けて、明治政府は明治5(1872)年に娼妓解放令を発しました。これは年季奉公によって奴隷のように働かされていた遊女や芸妓を自由にするというものでしたが、解放後の経済的な補償や職業訓練などの策を伴わないものであったため、翌年(明治6(1873)年)には、東京府令達第145号「貸座敷渡世・娼妓・芸妓規則」をはじめとした貸座敷制度が発足することとなりました。

明治時代の吉原大門。大門はガス灯に代わっています。「東京大日本名勝之内 吉原遊廓曙桜之景」明治24(1891)年(台東区立図書館デジタルアーカイブより)。

この制度の下では、妓楼は「貸座敷」と名前を変え、娼妓(遊女)は、その座敷を借りて個人の「自由意志」で営業している、という建前を取りました。そのため、娼妓の境遇や妓楼の実態は以前とほとんど変わりませんでした。

娼妓規則には以下のような規則が設けられました。

  • 娼妓本人の意思による届け出に対して就業許可を与え、鑑札を交付する
  • 課税(鑑札交付と引き換えに芸娼妓と貸座敷業者から東京府へ税金を納める)
  • 15歳以下の就業禁止
  • 許可した貸座敷以外での稼業の禁止
  • 月2回の性病(梅毒)検査の義務付け

この年、吉原遊廓には遊女屋189軒、引手茶屋121軒、遊女は3448人いましたが、明治9(1876)年には貸座敷104軒、引手茶屋43軒、娼妓711人に激減しており、多くの遊女が出ていったことが分かります。

ただし、解放された遊女の半数以上は故郷には帰っていません。その原因として、故郷に帰っても生活の保障がなかったこと、帰ったとしても近所の目もあり、親兄弟親戚たちに疎ましく扱われる、といったことがありました。故郷に帰らず一般社会に出たとしても世間の目は冷たく、元の同じような職につくか、元の楼主を頼って遊廓に戻るケースが多かったそうです。

なお、明治33(1900)年には大店5楼、中店4楼、小店147楼と増加していることから、日清戦争後の好景気の影響などにより再び復活していることが伺えます。

娼妓の年齢に関しては各府県で統一されていませんでしたが、明治22(1889)年の内務大臣訓令で16歳以上と統一され、その後、明治33(1900)年の「娼妓取締規則」により、18歳以上と変更されました。この規則により、これまで各府県ごとに異なっていた規定が統一されることとなり、再び国によって管理されることとなり「近代公娼制」が確立されましたが、このときに自由廃業の規定が明文化されました。

性病(梅毒)検査の始まり

もともと吉原では明治4~5(1871~1872)年頃、貸座敷業者が廓内に私的に設けた出張所において娼妓の梅毒の診療・治療を行っていましたが、全娼妓に対する検黴の強制的な実施は上述の「娼妓規則」によるもので、明治7(1874)年から始まりました。

さらに、吉原では明治9(1876)年、角町に第五警視病院が建てられ、明治22(1889)年には水道尻にの外に設けられた府立吉原病院において検黴が行われることとなりました。

明治時代の吉原

妓楼の名称については、江戸時代は「~屋」が一般的でしたが、明治時代の貸座敷においては「~楼」と称しました。

明治4(1871)年の火災により大半が消失したため、これを機に妓楼が洋風の建築物に変わりました。なかには、テーブルの上に西洋皿を置いて料理を盛ったり、ベッドを置いたりする楼もあったといいます。

明治時代の吉原遊廓でも引手茶屋が仲介しており、客が茶屋に入ると亭主と女将が出てきて挨拶し、担当の女中を決めます。その女中が客の希望する娼妓の名前を聞くか、馴染みの娼妓が決まっていれば聞かずに妓楼に案内します。

女中はずっと控えており、台屋への料理の注文から宴会の采配、床入りまで世話をします。そして客と娼妓が床に入ったところで茶屋に帰りました。翌朝、客はその茶屋に寄って料金を支払って帰る、という具合でした。

従来のように引手茶屋を通さずに直接貸座敷に行くこともできました。

明治36(1903)年には、娼妓の写真を見て指名するシステムがはじまり、大正5(1916)年には張り店が禁止されました。

明治44(1911)年4月9日に、遊廓の一角から出火した火災により、吉原遊廓だけでなく、周辺の家屋まで燃え広がり、およそ6,500戸を消失する「吉原大火」を起こしました。1987年の「吉原炎上」の最後に描かれています。

銘酒屋・芸者町(花街)の人気

明治時代に入ると、遊廓以外の銘酒屋や芸者遊びの人気が高まり始めました。

銘酒屋とは銘酒を売るという看板を立て、飲み屋を装いつつ密かに私娼を抱えて売春した店をいいます。

もともと幕末から明治中期にかけて浅草両国などで矢場(楊弓店)という、矢を射って遊ぶ店が流行っていました。そこで接客する矢場女(矢取り女)が売春も行っていたため、矢場は私娼窟と化していました。そのうち銘酒の看板に飾瓶、ちゃぶ台、茶棚、長火鉢などの低資金で1人~2人の娼婦がいれば始められる店が増えてきて矢場を凌駕するようになり、それらの矢場が廃れた明治20(1887)年頃から「銘酒屋」が流行し始め、大正時代初期に全盛を迎えました。

白山(文京区白山)のように最初は銘酒屋街から芸者の花街へと転身することもありました。

芸者の花街では、芸者を抱える置屋に加えて、場所を貸す待合(茶屋)、料理を出す料理屋を合わせて三業といい、同じ地区でこれらの三業が組織を作っていました。これを三業組合と呼びます。

待合には置屋から芸者が、料理屋からは仕出し料理が届き、宴席にて芸者が三味線や踊りなどの芸やお酌もし、客とさまざまなゲームをして遊びます。こうした芸者遊びのできる場所を三業地(花街・色街)といい、各地で商売を展開していました。

吉原遊廓でも、芸者を引手茶屋に呼んで三味線や太鼓、唄で楽しんだのちに貸座敷で遊女と遊ぶのがルールでしたが、客によっては茶屋での芸者遊びのほうが楽しく、とはいえ遊女を指名せずに茶屋で遊ぶことはできないので、茶屋での芸者遊びが終わると遊女の玉代(揚代)を置いて帰ってしまう客も多かったといいます。

そのため芸者たちとの遊びの方が楽しい客は吉原に行く意味がなくなります。そして芸者たちと遊びたい客は芸者のいる三業地へ、買春のみを目的とした客は吉原へというふうに分かれることとなりました。

また、江戸時代は政財界の社交場所としての機能を持っていた吉原でしたが、明治政府の政府高官が薩摩・長州・土佐出身者が大半だったことより、徳川色の残る場所が彼らにはなじまなかったのか、霞ケ関や永田町などの政治経済の中心に近い、新橋や赤坂などの花街に流れました。

大正時代の吉原:関東大震災

「大震大火前後の東京」より吉原遊廓の消失前(上)と焼失後(下)(東京都立図書館TOKYOアーカイブより)

大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災では吉原遊廓は消失しました。もともと千束池とも呼ばれた湿地帯を盛り土して造成したため地盤が弱く、被害も大きくなりました。

この震災において、娼妓の死者は147名、そのうち花園池(弁天池)にて焼死や溺死で88名が亡くなったといわれています。

娼妓の実態

この頃の娼妓の実態を描いた手記があります。「吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日」を著した森光子は、明治38(1905)年に群馬県高崎市に生まれました。父親をなくし家が貧しかったことから大正13(1924)年に19歳で吉原の妓楼「長金花」に1,350円で売られました(親が受け取ったのは、周旋屋(女衒)の手数料250円を差し引いた1,100円でした)。

光子は「春駒」という源氏名で花魁として働きましたが、稼ぎの9割を楼主に持っていかれ、多いときには一晩に10人以上もの客の相手をしなければならない状況でした。

食事も質素なもので、朝食は泊り客が帰ってからご飯に味噌汁と漬け物、昼食は夕方4時頃にご飯と煮しめ、たまに魚や海苔、夕食は夜11時頃に昼間の残りの冷や飯、おかずは漬物のみであったといいます。

身売りの際、周旋屋は「客の数は多いが酒の酌でもしていればよく、食べ物もご馳走ばかりで部屋も立派で着物も着られる、お金も不自由しないし、2~3年で故郷に帰れる」と言ったようですが、なかなか減らない借金と終わりのない絶望に耐えかねて昭和元(1926)年に脱走し、自由廃業することができました。

このように、家が困窮すると娘を娼妓として売るという習慣は依然として続いており、また娼妓の扱いも酷いものであったことが分かります。

大正から昭和の風俗:カフェーの流行

銘酒屋は、明治末期からの取締りの厳重化と大正6~7(1917~1918)年にかけた撲滅方針によって撲滅されかけましたが、看板を外したり、表向きは造花屋、新聞縦覧所として営業するなど大正10(1921)年頃に再び興隆しました。関東大震災後、浅草での警視庁の取締りの強化により、銘酒屋の本拠地は亀戸玉の井に移りました。

芸者に関しても、1910~1920年代にかけて花街の8~9割の芸者が売春行為をしていたとされており、花街は人身売買や買春の温床となっていました。芸者の売春行為については「不見転(みずてん)」と戒められましたが、戦後までこのような行為は多くの花街で見られ、置屋も勧めることが多く、芸者に「泊まり」として買春を強要することもあったといいます。

関東大震災後には、カフェーと呼ばれる、派手な化粧や着物の女給(ウェイトレス)が客の隣に座って身体を擦り寄せて接待をする、色っぽいサービスをメインにした店が出現し、人気を博すようになりました。基本的に女給たちへの給料はなく、客のチップが稼ぎでした。

1930年前後は大恐慌の影響から不況によりチップが少なくなっており、さらに同業者間の争いが加わり、女給たちはサービスを過激化せざるを得ませんでした。

1929年の東京府におけるカフェー女給の数は芸者と娼妓の合計数と並び、1931年にはその1.3倍以上まで増加しました。このようなカフェーの流行は、これまでの性風俗業界で主流であった遊廓や花街の売上や客数の減少をもたらし、吉原遊廓においても経営不振による廃業や転業、女給に転職する芸者や娼妓もいたといいます。

旧来の芸娼妓との遊び方とは異なり、カフェーでは時間をかけずに客の都合で遊ぶことが可能でした。さらに料金も安いため、不況にあえぐ大衆にとって最適な娯楽となったのでしょう。

このような風紀の乱れが問題となり、昭和8(1933)年に「特殊飲食店営業取締り規則」が発令され、女性が接待する店は「特殊飲食店」として規制され、そうではない店は「純喫茶」と呼ばれるようになりました。

そして、第二次世界大戦の戦局が悪化していた昭和19(1944)年の「決戦非常措置要綱」により、劇場や遊廓、カフェー、待合などの「高級享楽」は休業されることとなりました。

昭和の吉原:赤線地帯からソープランドへ

昭和5(1930)年時点で、吉原遊廓には貸座敷が295軒、引手茶屋が45軒、娼妓が3560人、芸者は150人あまりいたといいます。娼妓の半数は東京地方の出身、残りの半数は東北地方出身でした。

昭和8(1933)年の娼妓取締規則の改正により、娼妓の廓外への外出が認められることとなりました。

昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲により消失しましたが、3ヶ月後の6月に当局の命令により、戦意高揚と治安維持のため、焼跡のビル4ヶ所を改修して営業することとなりました。

戦後、GHQの指令により公娼制は廃止されましたが、政府は私娼による性売買を「社会上やむを得ない悪」として「女給や酌婦などの接客婦」が働く「特殊飲食店」を認めました。

そのため、吉原遊廓は特殊飲食店街(特飲)と改称し、カフェー(特殊飲食店)の名目で営業をはじめました。300軒が「カフェー」の看板を掲げて1032人の「接客婦」がいたといいます。大店には庭もあり、女給たちに部屋を貸していましたが、ほとんどの店は3坪程度の小店でした。

これにより、江戸時代より変遷しながらも続いていた伝統や格式といったものは消え去り、単なる買春地帯となりました。

そして昭和31(1956)年の売春防止法の成立と昭和33(1958)年4月の本格実施の前に一斉閉店となり、吉原は遊廓としての歴史を閉じることとなりました。

閉店した店は連れ込み旅館やアパートなどの下宿屋などに形を変え、トルコ風呂(昭和26(1951)年に登場)などに転業しました。このトルコ風呂は昭和41(1966)年に個室付浴場(サウナ)として風営法により許可され、以後性風俗店街として発展することとなりました。

その後昭和59(1984)年に起きたトルコ人留学生の抗議運動をきっかけとしたトルコ大使館からクレームにより、以後「ソープランド」と呼ばれるようになり、現在でも日本最大のソープランド街として営業しています。

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