そもそも「太夫」とは?
「太夫」とは、元来は中国における官制にならった官位のひとつで、五位の称でした。古代日本でも五位の官人が儀式とそれにまつわる芸能(舞妓)を取り仕切っていたことから転じて、神事芸能を行う神職や芸能人の称号となりました。
遊女における太夫とは?
遊女や芸妓における太夫の称号は、江戸時代のはじめごろに誕生したもので、当時は女歌舞伎が盛んで芸達者の役者を「太夫」と呼んだのが始まりといわれています。やがて、遊郭が整備されるなかで遊女の階級が確立され、美貌と教養・芸事を兼ね備えた最高位の遊女に「太夫」の称号が与えられるようになりました。
- 美貌:容姿端麗であることはもちろん、立ち居振る舞いも美しく、気品に溢れていました。
- 教養:和歌や漢詩、俳諧、書道、茶道、香道、書画など、幅広い教養を身に付けていました。
- 芸事:三味線や琴の演奏、唄、舞踊、鼓など、高度な芸事を習得していました。
なぜ、これほどの教養や芸事が必要だったのかというと、相手にする客の違いにありました。一般の遊女は、吉原で遊ぶお金を貯めて来たような町人、一方、太夫は、大名クラスやお大尽と呼ばれるような豪商など上流階級の人々。そのため、彼らに楽しんでもらうためには、知的な会話ができることと芸事に通じていることが必須だったのです。
そのため、楼主は、見込みのある「禿」が幼い頃から、お金と時間をかけて稽古しました。禿にとっても、もし太夫になれれば、身請けによって遊郭から出られる可能性もあったため必死だったでしょう。
太夫は、裕福な商人や大名など、身分の高い男性を相手に、豪華な宴席で接待を行いました。彼女たちは、男性の性的欲求を満たすだけでなく、教養や芸で客を楽しませ、時には相談相手や良き理解者としての役割も担っていたといいます。
しかし、質素倹約が求められるようになった宝暦年間以降(江戸時代中期以降)、太夫を相手にできるような客が減ったことと、それにともなって妓楼も遊女の教育にお金を割けなくなってきたことから、吉原では太夫はいなくなりました。
吉原を代表した源氏名:高尾
吉原の三浦屋に代々受け継がれた名跡が「高尾太夫」でした。
まるで現代のアイドルグループのように、人気が出ると「二代目は誰になるのか?」と話題になったといわれています。初代から何代目まで続いたのかは諸説あり判然としていませんが、6代説、7代説、9代説、11代説などがあります。
記録が残っている範囲で、歴代の高尾太夫について見ていきましょう。
初代 高尾太夫
- 生没年など、詳しいことは不明です。
- 後に尼となって妙心と称し、日本堤の西方寺の庵で暮らしたと言われています。
2代目 万治高尾(仙台高尾・道哲高尾とも)
- 1640年頃 – 1660年で生年は諸説あり。
- 仙台藩の三代藩主・伊達綱宗に思いを寄せられますが、高尾には恋しい男がいたためつれない態度をとります。意地になった綱宗は大金を投じて身請けしましたが、それでも言うことを聞きませんでした。とうとう、綱宗は隅田川に浮かべた舟の上で高尾を惨殺したといいます。数日後に隅田川の河岸に流れ着いた亡骸を手厚く葬り、高尾の不憫さに多くの人が同情してここに社を建てたのが「高尾稲荷神社」(東京都中央区)であるといいます。
- しかし、綱宗が身請けしたのは何代目の高尾だったのかはっきりせず、そもそも綱宗が高尾を斬り殺したというのも史実ではないため創作にすぎず、「金や権力になびかない」吉原の遊女の意気張りを象徴する物語として世間に広く知られることとなりました。
- 「伽羅先代萩」や「伊達競阿国戯場」などの伊達騒動を題材とした浄瑠璃や歌舞伎に描かれました。
- この逸話は、歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなり、広く知られています。

3代目 水谷高尾
- 水戸徳川家の為替御用達を務めていた水谷六兵衛に身請けされてから、六兵衛の下人の平右衛門と出奔したのち、次々と男を替えて、最後は茶屋の前で斃死していたとつたえられています。
4代目 浅野高尾
- 三万石の浅野壱岐守により身請けされたとされていますが、「三万石の浅野壱岐守」が存在しないため、真偽はわかりません。
5代目 紺屋高尾
- 駄染(だぞめ)高尾とも。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁したそうです。駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したといわれています。3人の子を産み、80歳余まで生きたとされています。
- 古典落語「紺屋高尾」のモデルとなりました。
6代目 榊原高尾
- 越後高尾とも。寛保元年(1741年)、播磨姫路藩15万石の当主・榊原式部大夫(榊原政岑)に落籍され、国元へしたがって行きました。しかし、徳川吉宗による倹約令で質素倹約が進められている中、政岑の贅沢な振る舞いは吉宗の怒りを買い、要地の姫路から僻地であり懲罰転封先として知られる越後高田への転封が命じられました。高尾太夫は高田への転封に同行し、越後高田城に住みました。高田転封後数年で政岑は死亡。その後は側室のお岑の方に呼ばれて江戸に戻り、上野池の端の榊原家下屋敷に住みました。剃髪して連昌院と号して菩提を弔いつつ過ごし、天明9年(1789年)1月19日、30余歳で病死した、とされています。
- 墓所は東京都豊島区南池袋の本立寺にあります。
7代目
- 徳川譜代の名門榊原家の播磨国姫路藩主・榊原政岑に身請けされるも、豪遊などを咎められ、時の将軍徳川吉宗の政策に反するとして榊原は強制隠居処分となりました。三浦屋四郎左衛門抱高尾七代相続の次第 七代榊原高尾 延享寛延のころといいます。上述の6代目と被るため混同されている可能性があります。
8代目・9代目
- 伝わるところが少なく詳細不明。
10代目
- ある大名に落籍され、その領地である播磨姫路に従っていきましたが、84歳の高齢で安らかな往生を遂げたといいます。6代目高尾と混同されている可能性があります。
11代目
- 寛保元年(1741年)、ある身分の高い人に落籍され廓を出る時、大門で盛り塩をする他に目に余る沙汰があったため、物議を醸したそうです。それ以来、この名を憚って用いなかったと伝えられています。
まとめ
吉原遊郭の三浦屋に代々受け継がれた名跡「高尾太夫」。
初代から何代目まで続いたのかは諸説ありますが、いずれも絶世の美女であり、高い教養と芸事を身に付けていました。
特に有名なのは、伊達綱宗との悲恋で知られる2代目です。
高尾太夫は、遊郭の最高位に位置する太夫の中でも、特に優れた女性にのみ許された称号でした。彼女たちの物語は、江戸時代の文化や社会を反映しており、現代でも多くの人々を魅了しています。