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【遊女】日本における歴史と変遷:古代から江戸時代まで

【遊女】日本における歴史と変遷:古代から江戸時代まで NEWS

遊女の起源:古代の巫女と神に仕える女性たち

そもそも「遊女」とは、歌や踊りなどの芸能を行う女性のことであり、性的サービスを行う女性を指すものではありませんでした。

神社で巫女神子と呼ばれていた女性たちが、神に仕えて宗教的な儀式を行う役割を担っていました。彼女たちは、神との繋がりを持つ存在として、神聖視されると同時に、性的な力を持つとも考えられていました。

このような女性が、布教などなんらかのきっかけで神社を去り、国中を放浪しながら港や宿場などで宗教的な歌や舞を提供するようになったのが、やがて性も売るようになったと考えられています。

奈良時代末期に書かれた「万葉集」には、「遊行女婦(あそびめ)」として登場し、彼女たちが実際に詠んだという和歌が残っています。

これらの女性たちは、現代の遊女とは異なる存在でしたが、日本における性風俗産業起源と言えるかもしれません。

平安時代の遊女:傀儡女や白拍子

平安時代になると、大江匡房の書いた「遊女記」に「遊女」という言葉が登場します。

遊女記」では、淀川の河口にあった「江口」と、尼崎の「神崎」、神崎川の対岸にある「蟹島(かしま)」について書かれており、これらの土地は、交易のため船の行き来が活発で多くの人が集まる場所でした。

遊女たちは船で移動しながら美しい調べを奏で、その歌声は鳴き声の美しいインドのホトトギス「くきら」のようだと書かれています。昼は演奏や歌などの芸能を披露し、夜は客とともに床入りしていたのでしょう。

また、同じく大江国房の「傀儡子記」には、人形遣いである「傀儡女(くぐつめ)」が、半芸・半娼の遊女として各地を移動していたと記されています。

さらに、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、男性の装束で歌や舞を披露する「白拍子(しらびょうし)」という遊女も現れました。白拍子を舞う遊女は貴族の屋敷に出入りすることが多く、妾にされるなど愛された女性も多かったといいます。

そのため、中世では遊女や白拍子を母とする公家や武将も多く、母親の出自について何もはばかられるようなことはなかったとみられています。

近世の遊女:遊郭の誕生と発展

鎌倉時代になると、寺社の門前町や街道沿いなど人が多く集まる場所に宿屋が並び、そこに遊女が集まるようになります。幕府は「遊君別当」という役職を置いて、それまで自由業であった遊女の取り締まりと税の徴収をしていたようです。

また、室町時代においても、幕府は「傾城局(けいせいのつぼね)」をつくり、厳格に取り締まりが行われ、幕府の統治下において営業していた、との記録があります。

しかし、これらの記録は断片的であり実体は不明です。

安土桃山時代になると、遊女が都市の一か所に集められ「遊郭」が誕生することになります。

天下統一をなした豊臣秀吉が、天正13年(1585年)に、大阪城の築城とともに城下町を整備し、大坂の島之内(のちに道頓堀に移動)に遊郭を設置しました。さらに、天正17年(1589年)にも京都の二条万里小路に遊郭をつくりました。これらの遊郭は、江戸時代に移転し、それぞれ大坂・新町遊郭京都・島原遊郭になりました。

吉原遊郭の成立

天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡に伴い、豊臣秀吉により関東への移封(国替え)を命じられた徳川家康は、当時は低湿地であった江戸を本拠地に選び、河川の整備や土地の埋め立て、江戸城の改修、物流のための水路や城下町の整備をはじめます。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利して幕府を開くと、諸大名に河川の改修や上下水道、道路などのインフラの整備、世にいう「天下普請」を命じました。

その結果、江戸には多くの武士や浪人、その屋敷を建設するための人足や職人、彼らの生活を支えるための商人など大量の人々が流入しました。このときの男女の人口比について正確な記録はありませんが、江戸では男性の占める割合が極めて高かったと考えられます。男がいれば遊女屋が必要ということで各地から遊女屋が移動してきました。

当時の江戸市中には遊女屋があちこちに点在しており、鎌倉河岸(現在の千代田区内神田付近)には駿府府中の弥勒町から移転者、道三河岸の柳町(現在の千代田区大手町付近)には江戸出身者、麹町には京の六條から移転者が営業する遊女屋などがありました。

慶長17年(1612年)、柳町にて遊女屋を営んでいた庄司仁右衛門が、これらの遊女屋を一箇所にまとめた遊郭を設置することで、江戸の風紀を取り締まることができると訴えます。そして大坂の陣により豊臣氏が滅びた後の元和3年(1617年)に現在の日本橋人形町に遊郭設置の許可が下り、その翌年の元和4年(1618年)11月に吉原遊郭が誕生しました。

当時の人形町付近は葭(ヨシ)や茅の生い茂る沼地で、これを埋め立てて造成したことから「葭原」と呼ばれましたが、葭の字を縁起の良い吉と改めて吉原となりました。

遊郭の設置にあたり、甚右衛門の陳情に追加した下記の申し渡しがあり、甚右衛門は吉原の惣名主となりました。以後、甚右衛門の子孫が代々惣名主を継ぐことになりました。

  • 吉原の外では遊女屋を営業しないこと
  • 遊女を買う客は一晩のみ泊めること
  • 遊女の衣装を派手にしないこと
  • 遊女屋の建物を華美にしないこと
  • 不審者を奉行所へ報告すること

そして甚右衛門は吉原を5つの町に分けて各地の遊女屋をそこに配置しました。

  • 江戸町:道三河岸の遊女屋
  • 江戸町2丁目と本柳町:鎌倉河岸の遊女屋
  • 京町:麹町の遊女屋
  • 新町:上方から下った遊女屋
  • 角町:京橋角町の遊女屋
(左)右から禿、太夫、格子、端(女郎)が描かれています。(右)禿、太夫、遣手が描かれています。最高位の太夫でも衣装や髪型が控えめであることが分かります。「あづま物語」(寛永19年(1642年))国立国会図書館デジタルコレクションより出典。

遊女というと、派手な衣装と化粧、髪飾りといった出で立ちを想像しますが、吉原ができた当時の遊女たちは、髪のかんざしもほとんどつけず化粧もしなかったといいます。

新吉原遊廓の誕生

その後、江戸の発達にしたがって大名屋敷や歌舞伎の興行が行われる芝居町などが吉原に隣接するようになると、風紀の乱れを恐れた幕府は明暦2年(1656年)に山谷(浅草寺裏の田圃)への移転を命じました。移転の際、幕府は元吉原より50%増しの土地と、引っ越し代一万五百両を与え、寛永17年(1640年)に禁止されていた夜間営業も許可しました。

翌年正月の明暦の大火により移転は遅れることとなりましたが、仮宅での営業を続けつつ造成をすすめ、同年8月に新しい吉原が誕生しました。

これ以降、元の吉原を元吉原、移転後の吉原を新吉原と呼ぶようになりました。移転後の場所が江戸の北端であったため、北里や北郭などとも呼ばれ、悪所と呼び眉をひそめる人もいたといいます。

当初の客は身分の高い武士が主で、五十間道の両側には、武士が顔を隠すための編笠を貸し出す「編笠茶屋」が並んでいました。

その他の遊郭や遊女

大坂の新町遊郭京都の島原遊郭江戸の吉原遊郭は、三大遊郭として有名ですが、この他にも全国に二十数か所の公許の遊郭がありました。

このうち、長崎の丸山遊廓には、日本人を相手にする日本行、出島に出向いてオランダ人を相手にする阿蘭陀行(紅毛行)、唐人屋敷の中国人を相手にする唐人行と呼ばれた遊女がいました。長崎の唐人屋敷の近隣の島原では「からゆき」という言葉が生まれ、のちの「からゆきさん」の語源となりました。これは19世紀頃から外国人貿易業者により日本人の女性が売春婦としてロシアや中国、東南アジアに送られていた女性のことを指しました。

このような公許の遊郭の他にも、岡場所と呼ばれる私娼による違法営業や、夜鷹と呼ばれた街娼、宿場での営業を認められた遊女などさまざまな遊女が存在しました。

遊郭の表裏

江戸時代、遊郭は様々な和歌や俳諧、舞踊や音曲、生け花などの日本文化の集積地となって多くの文化人たちが交流する社交場となり、そこから膨大な数の美人画や浮世絵、戯作などが誕生し、まさに文化の中心地として華開くこととなりました。

その一方、遊郭で働く遊女たちのその多くが貧困などから借金のかたに売られ、生きていくために売春行為を強いられた女性たちでした。しかもその待遇は極めて劣悪なもので、定められた年季が明ける前に命を落としてしまうことが大半であったといいます。

まとめ

この記事では古代から江戸時代にかけての遊女の誕生から遊郭の遊女までの歴史について述べました。遊女や遊郭を対象とした歴史研究は、その特殊性からかこれまでほとんど研究対象とはされてきませんでした。

遊女の歴史を振り返ることで、女性の地位や人権の変遷について考えるうえで重要な意味を持つでしょう。

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